洞水
村に生まれ、村に活き、村に埋もれて、村に死んだ多摩の奇才「洞水」。
そのように言われた人物がかつて小谷田家(コヤタ農園)にいました。
私たち家族は「お爺さん」と呼び誇りに思っています。
洞水を良く知る人は少なくなり、私たちもあまり多くを知りません。
残された資料などから引用し、洞水について紹介させていただきます。
小谷田洞水(こやた どうすい)、本名「小谷田彌市(やいち)」は明治8年に生まれました。
幼年期から器用で、左利きながら右手も人並み以上に器用で両手使いでした。
剣道、日本画、漢詩、華道など幅広い才能を発揮しました。
見ること、見れば出来る。
急所を見ること、急所を行へ。
技術は、三分の一を教へられ、後は工夫すること。
総てには急所がある。急所を行へば何でも出来る筈である。 |
小谷田洞水 |
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剣道
洞水が最も力を入れて取り組んだのが剣道でした。
剣道を習い始めたのは15、6才頃からのようです。18才のとき(明治25年)に、天然理心流指南・楠(くすのき)正重に正式入門しました。
覚えが良く、急所を知り、負けじ魂の人間だったから上達が早かったようです。
剣道の腕前が群を抜いていた洞水は、楠のかけがえのない弟子となりました。
後に免許皆伝を得て、楠の跡目を継ぎ指南となりました。天然理心流の六代目として指南を継いだのです。
明治34年、小谷田家の婿養子となった後は、門の脇に道場を開き、村の青年を集め剣道の指導をしていました。この道場は今も残っています。
当時の道場は茅葺きの屋根でしたが、昭和35年頃に瓦に葺き替えました。
入門早々の逸話
洞水が楠の道場に入門して間もない頃の話です。
北浅川における板割調練の際、師楠から「未だ出場しないように」といわれました。
しかし、洞水はどうしても出場を希望してきかず、ついに許されて出場することとなったそうです。
調練の中で洞水は腕利きの敵に遭遇したところ、地面に伏して逆立ちになり、とうとう板を割らさなかったという話です。
板割調練:紅白二隊に分かれた剣道の野試合で、面金の上に小さな板を結びつけ、これを割り合うもの。双方に大将、四天王をつくり、紅白の吹流しをおし立て、ホラ貝を吹き鳴らす勇壮なものであったらしい。
豪胆な洞水
剣道で鍛え、明治の国士型として生きた洞水は何事にも屈することがなく、その豪胆は相当有名であったそうです。
本人は「豪胆であると人がいいますけれども、豪胆ということはどういうことか」と尋ねられたとき、「豪胆ということは、俗にいわれているように、単に強いとか、不自身とかいうようなものではない。いや、むしろ、普通人よりも敏感で、驚く度は深いだろう。ただその時間が短く、直ちに判断して対策をするだけである。私などはどちらかといえば、神経質で驚きっぽい。例えば野猿峠を自転車で行くにも、崖のふちを通る人を見るとハラハラする」と答えていたそうです。(70歳を過ぎた頃)
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日本画
明治31年頃、日本画家「山本龍洞」に入門しました。画号「洞水」は師匠が「龍洞」の「洞」を取って与えたものです。
山本龍洞から習った期間は短いようで、ほとんど独学によるものらしい。
画は墨絵を最も好み、中でも山水が一番好きだったようです。花鳥、仏画、仙人などもよく描いていました。
洞水の作品はこちらをご覧ください。
明治31年7月、山本龍洞が寄宿していた善龍寺(八王子市元本郷町)の本堂で撮影された写真です。
右側に立っているのが龍洞、縁に腰掛けているのが洞水、その左は寺の住職とその妻。
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華道
50歳のころより大橋柳甫を師に華道を習い、師より与えられた「柳風」という名でいけていました。
大橋の死後、洞水は75歳の老齢であったが、長く大橋邸まで出向き華道教授を奉仕していました。
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工作
幼年期から器用な洞水は、色々なものを作っていました。
小学校時代に土蔵の模型を作り、実物そっくりで評判になったそうです。
剣道の面、胴、小手、袴、竹刀はすべて自製でした。
また、河川工事に使用した小船を3隻自作しています。
小谷田家の池には洞水が作った城郭の模型が残っています。小さな石で巧みに石垣が築かれているが、その石は旅行をしたときなどに拾い集めてポケットに入れて持ち帰り、長年かけて作り上げたものです。
(家人はポケットがすぐに破れてしまうと嘆いていました)
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■謝辞
このページの内容の多くは昭和34年に発行された橋本義夫さんが編集した「洞水-生涯、作品、思い出」から引用させていただいております。
洞水の記録を残していただけたことに心から感謝いたします。
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